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新型コロナウイルスの感染拡大の中で、この2年、世界はさまざまな壁に直面してきました。
世界中を襲ったこの危機は、故郷を追われた難民たちにとって、とても厳しいものでした。医療や衛生、教育へのアクセスなどが十分でない環境下で、コロナという新たな危機とも向き合わなければならない生活は、決して簡単なものではありません。
それでも、一人ひとりがさまざまな工夫、努力を重ねながら、決してあきらめない心で日々を懸命に生き抜いています。
日本で暮らす難民たちもそれは同じです。コロナ禍を日本で迎えた難民の背景を持つ若者はどのような生活を送っているのでしょうか。その姿を追いました。
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「コロナ禍での就職活動は大変でした。自分が目指していた職種も新しい募集がなくて・・・」
そう話すのはシリア出身のイブラヒムさん。東京のスタートアップ企業で、半年前からデータサイエンティストとしてのキャリアをスタートしました。
今から4年前、JICAが実施する「シリア平和への架け橋・人材育成プログラム(JISR)」を通じて、大分の立命館アジア太平洋大学(APU)大学院に留学するために来日したイブラヒムさん。日本に来るまでの道のりは、決して平たんではありませんでした。
イブラヒムさんは振り返ります。
「シリアで私が住んでいた地域でも紛争が激しくなり、最初は父親が働いていたアルジェリアに避難しました。その後、大学に入学するためにヨルダンに移り、産業工学を専攻して品質管理や工場の経営について学びました」。
そこで出会ったのが、“トヨタ生産方式”や“カイゼン”でした。
「日本の産業の効率性や質の高さに感動したんです。でも私が得ることができるのは、すべて本からの知識。実際に現場で学んでみたいという思いが強まりました」。そんな時、シリア難民のコミュニティを通じてJISRについて知り意を決して応募。何度も面接や試験を重ねてつかみ取った日本への切符でした。
APUで大学院生活を送りながら、国内外から集まった仲間と切磋琢磨し、日本の品質管理についての学びを深めていったイブラヒムさん。あこがれのトヨタでのインターンシップも経験し、日本の品質管理の“現場”で理論と実践を体感することもできました。
シリア人の友人とともに、地域の人にたちにシリアについて伝える活動にも取り組みました。「シリアと聞くと、みんな最初に“大変だったね”と言います。“紛争”のイメージだけではない、故郷の本来の姿を知ってほしかったんです」。
大学院の最後の1年は、残念ながらコロナの影響で授業の多くはオンラインに。シリアを紹介するイベントも中止せざるを得なかったといいます。そしてコロナ禍で始まった就職活動。これもまた新たな試練でした。卒業後は日本の工場でものづくりの仕事に携わりたかったものの、コロナで職を失っている人も多く、新しい雇用が難しい状況でした。
「止まっていても仕方がない、他の道も考えないといけないと気持ちを切り替え、データサイエンスのオンライン講座を受講しました。日本で人材を必要としている分野でもあり、自分が学んできた工場の経営にも活用できるスキルだと思ったからです」。100社以上応募するも書類審査も通らず、くやしい思いもしましたが、現在の会社と縁がつながりました。「スタートアップなのでまだまだこれから。自分の知識を磨いて、日本語ももっと話せるようになって、会社に貢献できたら」と意気込みます。
将来の夢は、シリアと日本の懸け橋となり、日本のテクノロジーや知識を伝えること。「世界各地に散らばっているシリアの若者が故郷に戻って、それぞれ得た経験や知識をシェアしたら、シリアのために、次の世代のために、何かできることがあると思うんです」。イブラヒムさんの挑戦はまだまだ続きます。
ミャンマー出身のティージャさんは、聖心女子大学の2年生。「UNHCR難民高等教育プログラム(RHEP)」*2を通じてかなえた大学進学の夢は、“ウィズコロナ”とのスタートでした。
「高校卒業してやってみたいこともたくさんあったのですが、コロナの影響でできなくなってしまって・・・。とても悲しかったです」と振り返ります。
でも、ティージャさんは前を向きました。「私だけではなくてみんな同じ。この状況の中でも自分の夢に向かって突き進んでいる友達に勇気をもらって、自分も頑張ろうと思いました」。
大学のオンライン授業にも全力で取り組み、コロナ禍でできた時間を使って母親から編み物を教えてもらったり、本を読んだり、今できることに一生懸命取り組みました。
日本に来たのは9年前、小学5年生の時でした。「今でもよく覚えているのが、音楽の授業でリコーダーの練習をしている時。初めてで吹き方が分からなくて、1人だけ“ピー!”と変な音を出してしまって・・・。今では良い思い出ですが、とてもはずかしかったです」。最初は日本語がまったく分からず、不安も多かったといいます。
そんな中、ティージャさんが暮らしていた自治体では、外国籍の子どもなどが日本語を学ぶことができる教室がありました。それが本当に大きな助けになったといいます。「日本語にはミャンマーではあまり使わない “オノマトペ”(擬声語)があります。友達との会話によく出てきて、おもしろいなと思いました」。
そんな彼女の大学の専攻は日本語日本文学科です。大学でお気に入りの場所を聞くと“図書館”と即答するほどの読書好き。好きな作家は森鴎外だといいます。「高校の時に芥川龍之介の『羅生門』を読んで近代日本文学に興味を持ちました。文学を通じて歴史をたどっていくのが楽しいんです。過去に起こったこと、昔の人が考えていることを学んで、今に生かしていくことが大切だと思っています」。
2年生になるとハイブリッドの授業も増えて、学校に行ってクラスメイトとも直接顔を合わせる機会が増えました。「実際会ったら、思ったより背が高いな、とか、新しい発見もあって新鮮でした(笑)」。これから大学でもっとたくさん友達を作って、いろいろなことに挑戦していきたいとわくわくしています。
これから将来の道を決めるために、在学中にインターンシップにも挑戦してみたいというティージャさん。「これまでやってきたアルバイトでは接客が多かったのですが、自分も人として成長できるように、いろいろな職種を見てみたいんです」。
ティージャさんは7人家族。一時は家族がバラバラになったこともありましたが、日本に来てから、一つ屋根の下で、両親、5人姉妹で暮らしています。「日本に来て、家族みんながそろって暮らすことができたことが一番の幸せです」。
多くの人に助けられてきた日本での生活。ティージャさんは、自分のように、難民の背景を持つ子どもたちが生き生きと過ごせるよう、日本語教室などが日本で必要なサービスが増えていくことを願っています。
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日本をはじめ世界各地では、故郷を追われコロナ禍でさまざまな困難に直面しながらも、学びたいという意欲を持ち続け、自身の未来を自らの手で切りひらこうと奮闘している難民がたくさんいます。UNHCRはこれからも、日本のさまざまなパートナーと連携して、日本で暮らす難民の若者の学びを支える活動を強化していきます。