2011年3月11日、東日本大震災から10年がたちました。
東北地方を中心に甚大な被害をおよぼした地震・津波により、多くの人が命を落とし、大切な人を失いました。日常をも奪われ、長きにわたる避難生活を余儀なくされました。そして今もなお、復興は続いています。
当時、東京で勤務していた高嶋由美子(現UNHCRウガンダ事務所 リスク管理・コンプライアンス主任担当)は「日本でこんなことが起こるのか」と言葉を失いました。まずはスタッフの安全を守ること、そしてUNHCRとしてなにをすべきかを考えました。
翌日から、世界各地から支援の声が寄せられました。「日本はこれまで難民を支援してくれた、なにかできることはないか」。いまUNHCRだからできること、現実のニーズに一番合うことを考え、難民支援の現場でも使われているソーラーランタンを届けることにしました。
震災から2週間後、石巻市に降り立った高嶋は「最初の10分間、動けなかった」といいます。世界各地、あらゆる緊急事態を経験している高嶋にとって、それほど衝撃的な光景でした。ソーラーランタンを届け、被災者の方々と話をする中で、このソーラーランタンが希望の光となってくれればと強く願いました。
日本で暮らす難民たちからも、たくさんのメッセージ、支援が寄せられました。そのひとつが神奈川県内の元ベトナム難民の定住者によるボランティアグループ。「日本は帰る場所がない私たちを定住させてくれた。その恩返しがしたいという気持ちはみんな同じ。それが出発点でした」。ベトナム出身の日野肇さんはそう振り返ります。
日野さんは1970年代に留学生として来日、旧南ベトナムの首都サイゴンの混乱により母国に帰ることができず、日本にとどまることを決めました。 “ボートピープル”として知られるインドシナ難民の人々も多くが定住の道を選び、日本各地にネットワークが生まれています。
すぐに行動を起こしたい、日野さんたちはそう思いましたが、支援といっても、この混乱の中でどこに連絡を取ったらいいか分かりませんでした。それでも自分たちになにができるのか、現場のニーズはなにかをみんなで考えました。そして、知り合いのつてを当たって、ニーズのある避難所を紹介してもらったのです。5月には、被災者を受け入れている川崎市の施設へ、そして6月には福島市で炊き出しを行いました。
「福島には最初はバス1台で行く予定だったんですが、“東北の人の助けになりたい”と、どんどん仲間が増えました」
バス2台で約60人、ほとんどが平日は仕事があるため、週末の夜中に出発、早朝に到着して炊き出しを行いました。「避難所ではおにぎりが多いと聞いていたので、野菜中心の温かい献立がいいのではと思いました。みんなで手分けをして材料の準備などを行い、ベトナム料理のフォーや揚げ春巻き、手羽先などを振る舞いました。私たちができることは少しでしたが、笑顔になって喜んでもらえてうれしかったです」と日野さん。みんな張り切って、大盛りにして振る舞っていたといいます。
「自分には量が多すぎたけど、味は良かったな。余ったから、また夕食にあっためてもらうよ」。そんな被災者の方からの声も励みになりました。
子どもたちにはお菓子、生活に必要な下着やインスタントのフォーのカップ麺なども配りました。この経験をもとに、8月には石巻市で炊き出しを行い、犠牲者の方々の法要を行いました。
「私たちは元難民として日本に恩返ししたい、日本、そして世界の人と苦しみを分かち合って助けたいという気持ちが常にあります。ですので、熊本地震、フィリピンの台風被害、ネパール大地震など、わずかですが寄付を集めて送るという取り組みも続けています」と日野さんは語ってくれました。
東日本大震災を通じて、私たちは“心を寄せ合う”ことの大切さを学びました。いまだ自身も困難な状況の中で、世界各地から届いた「日本の支援に恩返しがしたい」というたくさんの声。ここに、誰一人取り残さない、社会全体での取り組みの根幹にある大切なメッセージが含まれているのではないでしょうか。
この地震・津波で亡くなられた方々に深い哀悼の意をささげるとともに、最愛の家族や友人を失った方々、被害にあわれたすべての方々に祈りをおくります。