2021年7月23日、東京2020オリンピック競技大会の開会式。紛争や迫害により故郷を追われた29人の難民アスリートから成る「オリンピック難民選手団」は、ギリシャに次いで2番目に入場しました。
故郷を追われた8,000万を超える人々の代表として世界中に勇気と希望を与える―。選手たちはその使命を胸に、世界の舞台に立っていました。
その姿を、日本でも特別な思いで見守っている人がいました。2010年から2011年4月まで、JICA青年海外協力隊としてシリアで活動していた藤田一臣さんです。彼の視線の先にいたのは、シリアからオランダに逃れたバドミントン男子シングルス代表、アラム・マフムード選手でした。
バドミントンがつないだ13歳の少年との出会い
「ピシッとスーツに身を包んで、国立競技場で堂々と立っているアラムの姿に、初めて誰かに対して “誇りに思う”と心から感じました」
今から約10年前、協力隊員としてシリアでジュニアのナショナルチームを指導していた藤田さん。アラム選手もそのチームの一員でした。藤田さんが初めて出会った時は、まだあどけなさが残る13歳の少年でした。
アラム選手がバドミントンを始めたのは7歳の時。いつも一緒だった姉の影響で、それまで続けていた体操から転向しました。実際に始めてみるととても楽しく、あっという間にバドミントンに夢中になりました。
アラム選手の第一印象は「照れ屋で甘えんぼう」。チームの中でも実力が高く、他の選手より少し負荷の高い練習メニューが組まれていましたが、「最初は必ず文句を言うんですが(笑)、根は真面目で努力家。がんばって練習をこなしていたのを覚えています」。ただ、シリア国内では好成績を残していたものの、世界レベルで見ると実力はまだまだ。「オリンピックに出場するほど強くなるとは、その時は思ってもみませんでした」と藤田さんは振り返ります。
アラム選手にとって、恩師である藤田さんの故郷である日本で開催されるオリンピックは特別でした。
実は2010年秋、ジュニアの大会に出場するために藤田さんの引率で来日したことがありました。「結果は “コテンパン”でした。彼自身もがんばって練習してきたので悔しかったはずですが、同世代にはもっと強い選手がたくさんいることを目の当たりにして、次につながる機会になったと思います」。
試合以外にもいろいろな経験をしてもらいたいと、藤田さんたちの案内で東京を観光したり、日本食にチャレンジしたりもしました。その中でアラム選手が一番喜んでいたのはバドミントンショップ。「シリアには専門店があまりないので、日本製のラケットやさまざまな道具を見て目を輝かせていました」。
そしてもう一つ、アラム選手にとっての“ヒーロー”、桃田賢斗選手の故郷でもある日本。「別のジュニアの大会で桃田選手と対戦したことがあり、それ以来ずっと桃田選手を意識をしていたみたいです」。アラム選手もさまざまなインタビューで、目標の選手として桃田選手を挙げていました。
紛争の発生、突然の別れ
日本から帰国後は「もっと強くなりたい」と、よりハードなメニューに取り組んでいたアラム選手。その人生が、2011年3月のシリア紛争の発生により大きく変わります。治安の悪化を受けて、ナショナルチームの練習も中止に。藤田さんも自宅待機を余儀なくされました。「それまで当たり前だった日常が一気に奪われてしまいました。“そっちは大丈夫か”と、現地のコーチや選手の保護者と、携帯でメッセージをやり取りしていました」。
練習も再開できないまま、藤田さんら協力隊員は日本に緊急退避することに。それを知って訪ねてきてくれたのがアラム選手でした。「協力隊員がいる宿舎にお父さんと車で来てくれたんです。“気を付けて、がんばれよ”。そんな会話をしたのを覚えています」。“アラム”や“シリア”などと書かれたユニホームやパーカーなどをプレゼントしてくれました。
アラム選手自身も、この日のことを鮮明に覚えています。「協力隊員の皆さんとはたくさんの思い出があります」とアラム選手。毎日のように一緒に練習し、チームを盛り上げてくれていた藤田さん。「シリアを去ると聞いて本当に悲しかったです。シリアのことを覚えておいてもらいたいと、父に頼んでお土産を買いに行きました」。
その時は「すぐにシリアに戻れる」と思っていたという藤田さん。でもその思いはかないませんでした。アラム選手とはFacebookを通じて交流が続き、「現地では厳しい状態が続いているにも関わらず、アラムから返ってくる言葉はいつもポジティブでした。逆に“カズは元気か?”と、日本に帰った僕たちのことを心配しくれていました」。
オランダで新たな出発、夢のオリンピックの舞台へ
その後もシリアの情勢は落ち着かず、学校に行くことも、バドミントンを続けることも難しくなったアラム選手は国外への避難を決意。オランダに逃れたアラム選手を救ったのはやはりバドミントンでした。バドミントンを通じて仲間ができ、現地の言葉を覚え、コミュニティに溶け込む助けにもなりました。
そしていつしか、アラム選手は、バドミントンの国際大会で上位入賞するまでに成長していました。
オリンピック難民選手団の代表候補にアラム選手の名前が挙がっていることを知った藤田さんは、「びっくりしました。しかも次の開催地は東京。絶対に観戦に行きたいと思っていたのですが・・・」。アラム選手も藤田さんたちと連絡を取り合い、東京での再会を約束していましたが、残念ながら無観客での実施となりそれはかないませんでした。
それでも、テレビなどを通じて開会式で堂々と入場する姿を目にして、藤田さんは胸を熱くしていました。試合前日には応援メッセージを送るなどして励まし続けました。結果は残念でしたが、世界の舞台で全力で戦うアラム選手の姿に、藤田さんは13歳の少年を重ね合わせていました。アラム選手は「大きな試合を終えた後に、Kazから誇りに思ったよ言ってもらえて本当にうれしかった」と話します。
藤田さんは、日本を離れる前に空港にいるアラム選手と電話で話すことができました。「本当に良い経験ができた。次は必ず勝つよ」と力強い言葉を聞くことができ、また日本で国際大会が開かれた時の再会を誓いました。
そしてアラム選手は、藤田さんをはじめシリアでお世話になった協力隊員たちに、オリンピック本番直前の練習で使ったシャトル、“MAHMOUD”と書かれたTシャツを贈りました。“感謝の友情のしるし”だと話します。
「世界の難民の代表としてオリンピック出場にできたのは本当に名誉なことでした。コートに立ったその瞬間は、間違いなく、今までの人生で最も素晴らしいものでした」。今は新たな目標に向かって、オランダでトレーニングに励むアラム選手。藤田さんもアラム選手との再会の日が来ることを願っています。
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