8月24日、国立競技場に最初に入場してきたのはパラリンピック難民選手団。世界の8,240万の故郷を追われた人々、そのうち障がいを持つ1,200万人の代表として、パラリンピックの開会式に参加しました。
6人の代表から成るパラリンピック難民選手団は、出身4カ国、4競技での出場。旗手を務めたのは、アリア・イッサ選手(シリア出身、ギリシャ在住)、アバス・カリミ選手(アフガニスタン出身、アメリカ在住)です。
こん棒投げに出場するアリア選手は20歳、パラリンピック難民選手団初の女性アスリートです。4歳の時に患った天然痘により脳に障がいが残り、身体的、知的障がいがあります。東京では、自己ベストの16.4メートルを超えたいと意気込んでおり、「パラリンピックに出場できることを誇りに思います。夢を追うことの大切さを世界のすべての難民に伝えたい」と、今週月曜に行われた記者会見で話しました。
アリア選手は世界中の障がいのある女性たちにも勇気を与えたいといいます。「2年前にこん棒投げを始めた時、自分が東京のパラリンピックに難民選手団の一員として出場するなんて想像もしませんでした。障がいのあるすべての女性に、家の中で時間を過ごすだけでなく、外に出てスポーツに挑戦してみてほしい」。
開会式で選手団が手を振りながら入場するなか、オリンピックと同様、新型コロナウイルス対策として無観客でしたが、会場は軽快な音楽と熱気で活気にあふれていました。
2016年のリオ大会では、今回の代表でもあるシリア出身のイブラヒム・アル・フセイン選手(水泳、ギリシャ在住)、イラン出身のシャハラッド・ナサジプール選手(陸上、アメリカ在住)が独立パラリンピック選手団として出場しました。難民パラアスリートがパラリンピックに出場するのは2回目ですが、公式の「パラリンピック難民選手団」としての出場は初めてです。
イブラヒム選手は日本に到着した時、空港で受け取った日本の子どもたちからの応援メッセージと写真のアルバムに感動したといいます。「私にとってこの贈り物はメダルと同じ価値があります」。
テコンドー代表のパルフェ・ハキジマナ選手(ルワンダ・マハマ難民キャンプ在住)、カヌーのアナス・アル・ハリファ選手(ドイツ在住)は数日のうちに到着予定で、東京で6人の代表全員がそろいます。
国際パラリンピック委員会(IPC)は2019年の「グローバル難民フォーラム」での誓約を受けて、東京大会のパラリンピック難民選手団を支援しています。IPCとUNHCRは世界のすべての難民のために、スポーツ施設や競技大会へのアクセス、その他スポーツ関連のイベントへの平等な参加を実現するために連携しています。
パラリンピック難民選手団は、第二次世界大戦前にナチス・ドイツの迫害から逃れ、自分の新たな“故郷”を見つけたルートヴィヒ・グットマン氏のレガシーも受け継いでいます。グットマン氏は“パラリンピックの父”として、パラリンピック・ムーブメントの普及にも貢献しました。
世界で紛争や迫害により故郷を追われた人は2016年は6,500万人、現在は8,000万人を超えるまで増えています。パラリンピック難民選手団は、国際社会全体で取り組むべき難民問題への関心を喚起を訴えます。
パラリンピック難民選手団の意義について、シャハラッド選手はまさに“インクルージョン”だと表現しています
また、イブラヒム選手は、来日してからプールでトレーニングを重ねるなかで、背景、言語が異なってもパラアスリートは互い通じるものがあると感じたといいます。「家族だったら、言葉なんて必要ありませんよね。私はアバスと会った時、古くからの友人に再会したような感じがしました。ほかの難民アスリートに会った時も同じ感覚でした。私は人々に希望を与える存在になりたい。そして2024年のパリ大会に向けて、難民選手団がますます強い存在となることを願っています」。
日本国内でも、難民パラアスリートを歓迎し、応援する動きがあります。そのひとつが東京都の文京区。パラリンピック難民選手団のホストタウンです。パラリンピック難民選手団に贈られたのは、区内の21の学校の児童・生徒が折り、地元のシルバー人材センターの協力を得てつながれた3,000の青い紙飛行機。そこには、世代を超えて紡がれた想いが込められています。
紙飛行機は日本では、メッセージや夢を運ぶという意味もあります。そして青という色は平和の象徴であり、国連やUNHCRカラーでもあります。
紙飛行機には「がんばって!」「あきらめないで、希望を持って!」などのメッセージが書かれていました。
「ぼくは水泳などの水に関わる運動がすきなので、イブラヒム選手に送りました。ぼくは難民のような人で選手でもオリンピックに出られることを知っておどろきました。戦争の経験はとてもつらいものだとおもいますが、パラリンピック、がんばってください。金メダルかくとくをおうえんしています!」(小学5年生、原文ママ)
新型コロナウイルスのパンデミックにより、難民パラアスリートを区に直接迎えることはできませんでしたが、文京区では難民問題について学ぶワークショップや選手などの交流をオンラインで実施しています。成澤廣修区長は「残念ながら対面でのイベントの開催は難しいですが、UNHCRとも連携しながら、ホストタウン事業を通じて区民をはじめとする日本の多くの人々、特に子どもたちに難民問題を知ってもらいたい」とUNHCR駐日代表カレン・ファルカスとの面談で話しました。
スポーツは難民パラアスリートにとって、モチベーション、希望、そして自己鍛錬の源です。そしてパラリンピックは、障がいのあるアスリートでも国際的なレベルで競うことができる貴重な機会です。
テコンドー代表のパルフェ選手は6歳の時、ブルンジの故郷での攻撃により母親を亡くし、自分も銃撃で左腕に障がいを負いました。テコンドーに出会ったのは10代、すぐに夢中になりました。部族による区別なく取り組むことができたことも理由でした。
「スポーツは、子どものころから経験してきたさまざまな苦しみを克服するのを助けてくれました。私を守ってくれたのです」。現在、32歳になったパルフェ選手はそう振り返ります。ブルンジから逃れ、安全を求めてルワンダのマハマ難民キャンプに避難してから、1年もたたないうちにテコンドークラブを立ち上げ、現在150人の難民を指導しています。
生まれつき両腕のないアバス選手は、50メートルバタフライ、50メートル背泳ぎに出場します。16歳でアフガニスタンを追われ、危険のなかでトラックに隠れ、3日間凍えそうな寒さに耐えて山々をさまよいました。トルコにたどり着いてから4年間難民キャンプで暮らし、キャンプから1時間ほど離れた場所にプールを見つけてトレーニングを続けていました。水泳は自分にさまざまな機会を与えてくれた、自分が若者のロールモデルになれるツールだと確信しています。
「夢や目標を決してあきらめない、両腕のないアバス・カリミという選手がいたことを、この先ずっとみんなに覚えていてほしい。なんらかの形で、私は世界を変えることができると信じています」
ガーナの難民キャンプで育ち、その後カナダで国籍を得て、現在はドイツのサッカー1部バイエルン・ミュンヘンで活躍するアルフォンソ・デイビスUNHCR親善大使は、パラリンピック難民選手団の代表6人に手紙を送り、「世界に刺激を与えるチカラを持つロールモデルだ」と激励しました。
「あなたたちの東京での挑戦は、間違いなく、誰かの人生を変えるでしょう。あなたたちの姿を見て、スポーツを始める若者がいるかもしれません。あなたたちの成功を見て、自分もできると思う難民もいるかもしれません。それは、次世代の看護師、教師、科学者かもしれない。スポーツをきっかけに変化は起こせるのです」
▶原文(英語)はこちら
▶Tokyo2020オリンピック・パラリンピック難民選手団特設サイトはこちら