週末の昼下がり、群馬県館林市の集会所。机を並べて勉強しているのは、この街で暮らすミャンマー出身の子どもたち。日本語ボランティアのサポートを受けながら、学校の宿題などに一生懸命取り組んでいます。
その隣の部屋では、付き添いで来ていた母親たちを対象に相談会が開かれていました。
「最近、何か困っていることはありますか?」
「子どもの学校、病院などで、どんな支援が必要ですか?」
一人ひとり、時間をかけて親身に相談にのっているのは、日本に来て17年のカディザさんです。
「私も日本に来たばかりのころは、たくさんの人に助けてもらいました。少しでも同郷の仲間の力になりたい、そのために私の経験が役に立てばと思って活動を続けています」
カディザさんはバングラデシュ生まれ、ミャンマーの少数民族ロヒンギャです。
医師だった父親はミャンマーで反政府運動に加わったとして故郷を追われ、隣国のバングラデシュへ避難。10人きょうだいのうち、4人目からはバングラデシュで生まれ育ちました。
カディザさん家族は、命と安全を守るために、バングラデシュではロヒンギャであることを隠しながらの生活でした。
「父のように医者になって、人の役に立ちたくて。そのために大学で学びたかったのですが、バングラデシュでは身分を隠していたこともあり難しかったんです。でも私は、あきらめることができませんでした」
20歳になる前に、親せきの紹介で出会った男性と結婚。「大学で勉強したい」という、カディザさんの夢の理解者でもあった夫との出会いは“運命的”だったといいます。そして、すでに日本で難民認定を受けていた夫と暮らすために、カディザさんも来日を決意。忘れもしない、2006年12月31日でした。
不安と期待を抱きながら降り立った大みそかの東京は、バングラデシュの気候しか知らないカディザさんにとって「とっても寒かったです」。街中はイルミネーションでキラキラ輝いていて、夢のような世界が広がっていました。「ここで新しい生活が始まるんだ」。それから数日、夫に都内のいろいろな場所を案内してもらい、不安が少しずつ消え、期待が膨らんでいったことを覚えているといいます。
しかし、順調かと思ったスタートも、年が明けると「夢がさめてしまった」とカディザさん。ここは日本。言葉も分からない、文化も違う、物価も高い・・・。難民事業本部(RHQ)で半年間、そして、日本語学校で2年間、必死で日本語を勉強しました。すべては、大学進学の夢をかなえるためでした。
日本で自立して生活していくために、アルバイトも始めました。初めてのバイト先はファーストフード店。この時のことをカディザさんは「宝物のような時間」と振り返ります。
当時オーナーの白熊繁子さんは、「カディちゃんはまだ日本に来て間もなく、今からは信じられませんが、日本語でのコミュニケーションも難しかったんです。それでも、なんでも一生懸命取り組んでくれて、飲み込みも早い。いつの間にか、みんなから頼られる存在になっていましたね」と振り返ります。
「履歴書を見て、とても大変な境遇に生きてきたことが分かって、何か助けになれればと思っていました。最初は正直大丈夫かな、と思ったのですが、がんばりたいという気持ちは伝わってきて、実際にたくさんお店に貢献してくれました」と、店長だった白熊崇浩さんも話します。
イスラム教徒のカディザさんへのまかないは、まだなにも揚げていない、まっさらな油で揚げたエビバーガー。カディザさんもお店のスタッフたちに手作りのカレーをふるまうなど、家族のような関係になっていました。
夢に向かって進み続けるカディザさんでしたが、大学進学のために必要な資金はとても足りない・・・。そこで見つけたのが、UNHCRの「難民高等教育プログラム(RHEP)」*でした。「宝くじに当たるくらいの確率だと思っていましたが、私にはそれしか道がなかったんです。書類審査も面接も必死に取り組みました」。そして見事、RHEP奨学生として青山学院大学に入学。夢の一歩を踏み出しました。
「日本に来るまでは、自分が何者か、隠さないといけない人生でした。でも私は大学で、私はミャンマー出身、ロヒンギャだと、初めて自分から言うことができたのです」。アルバイト先のオーナーからプレゼントされた時計を付けて勉学に励み、在学中に2人子どもを授かりましたが、夫や周囲のサポートを受けて、4年間で卒業することができました。
そのように、日本で家族と一緒に、大変ながらも充実した生活を送っていたカディザさん。日本に来て数年は東京で暮らしていましたが、東日本大震災をきっかけに、ロヒンギャの仲間が多く暮らす群馬県館林市に引っ越すことに。そこで実感したのが、東京では経験したことのなかった孤独感でした。
「私は“都会派”なので(笑)、にぎやかなところが好きなんです。がらりと環境が変わって、しばらくは落ち込みました」。でもそこには、自分よりもっと大変な状況にあるロヒンギャの女性たちの存在がありました。家の外にほとんど出ることがなく、日本語も分からない。子どもが学校から持って帰ってくる書類も読めず、病院の診察も受けることができない・・・。そんな現実を目の当たりにしたカディザさんは、同胞の仲間たちの力になりたい、そのために自分ができることがあるはずだと強く思いました。
思い立ったらすぐ行動、UNHCRなどに相談をして、カディザさんの呼び掛けをきっかけに、NGOの支援による日本語教室が始まりました。それからずっと、カディザさんは館林で暮らすロヒンギャの女性たちの“相談役”。2015年からはボランティア団体「Harmony Sisters Network」を立ち上げ、子どもたちの学習支援などにも取り組んでいます。
「自分も大変なことがたくさんあるはずなのに、いつもみんなのためにがんばってくれる。私たちにとっては本当にありがたいですし、頼りになる存在です」。カディザさんの友人でもあるスバイラさんは、カディザさんに教科書などを借りて日本語を学び、運転免許も取ることができました。
そしてカディザさんは、自身の学びにも終わりがありません。「もっとみんなを助けることができるような知識や技術を身につけたい」。再び受験勉強をスタートし、RHEPを通じて早稲田大学大学院に進学。「難民の人権」について研究に取り組みました。
母親、学生、ボランティアなど、何足ものわらじを履いた生活を続けるカディザさん。それでも「大変だと思ったことは一度もない。家族のために、ロヒンギャの仲間のためにがんばりたい、それが私の原動力です」と語ります。
そして大学院2年の時、就職で悩んでいた時期に出会ったのが、株式会社Shared Digital Center(SDC)代表の金辰泰さんでした。「池袋のスタバで数時間話をして、最後にはもう僕の会社で働くことが決まっていました。それくらい、目指すものが同じで、これから一緒にビジネスをやっていきたいと思う相手だったんです」。
SDCは、NPOの総務・人事・経理などのバックオフィス業務やビジネス支援を行っている企業。カディザさんにとっても「金さんとの出会いは必然だった」といいます。現在、大学院を卒業し、SDCに入社したカディザさんと取り組んでいるのは、館林市内で暮らすロヒンギャの女性たちが、家事や子育てをしながら、リモートワークができる機会の提供です。最初の数カ月前はパソコンの使い方からスタートした女性たちも、「働くことができる」喜びとやりがいを感じながら、日々生き生きと仕事に取り組んでいます。
カディザさんは、昨年12月にスイス・ジュネーブで開催された「第2回グローバル難民フォーラム」に日本で暮らす難民の代表の一人として出席。SDCやボランティア団体で取り組んできた活動について紹介し、日本から“社会全体で取り組む難民支援”の重要性を訴えました。
「私がここまでがんばれたのは、日本で出会ったたくさんの人たち、そしてなによりも、家族の支えがあったからです。でもまだまだ、スタートラインに立ったばかり。もっと、日本で暮らすロヒンギャの仲間たちの助けになりたいし、まだまだできること、すべきことがあると思っています」
そして、カディザさんの夢にはさらに先があります。「いつか、バングラデシュの難民キャンプで暮らす子どもたちの力にもなりたいです」。