福岡空港から車で約30分、福岡県那珂川市内の閑静な住宅街。この土地に本社と工房を構える株式会社岡野は、770年の歴史を持つ日本の伝統工芸品「博多織」の織元。創業120年を超える老舗です。
ガタガタガタガタ・・・
工房に入って聞こえてきたのは手織り機の音。博多織の制作工程は何十もに分かれていますが、岡野では熟練の職人たちの手により、この工房一つで着物や帯の製作のすべてが行われています。
この日、UNHCR駐日事務所の職員がこの工房を訪れたのは理由がありました。UNHCRと博多織。その懸け橋となったのは、一般社団法人イマジンワンワールドのKIMONOプロジェクトです。
2020年の東京五輪に向けて、参加国・地域それぞれをイメージした着物を作るという壮大な挑戦に、2014年から取り組んでいたKIMONOプロジェクト。創設者は、福岡県久留米市の呉服店「蝶屋」3代目社長でもある高倉慶応さんでした。“世界はひとつになれる”と、日本から世界へメッセージを発信したい―。その想いに賛同し、日本全国からたくさんの企業や個人がスポンサーに手を挙げました。
「在日大使館とも相談しながら、各国・地域の特徴を表現した着物の制作を進めていた時、2016年のリオ五輪で難民選手団が初結成されたことを知りました。東京にも出場するのであれば難民をイメージした着物も絶対に作りたい、必要だと思いました」。その後、東京五輪でも難民選手団が結成されることが発表され、早速準備に取り掛かりました。
そして、制作を担当することになったのが博多織の岡野でした。
難民の現状に想いをめぐらせながらイメージを考え始めた時、白羽の矢が立ったのが現代アーティストの小松美羽さんでした。小松さんのデザインのテーマは「祈り」。彼女のデザインであれば、素晴らしい作品ができるという確信がありました
小松さんと岡野がつながりがあったこともあり、本人に打診したところ快諾。「このような光栄なお仕事をいただけることの意味、役割の重さを実感しました」と小松さん。「難民という以前に、それぞれが個性と生きる役割を持った一人の人間。難民という言葉に、今を生きる彼らを埋もれさせてはいけないと思いました。難民の皆さんの祈りに向き合い、デザインした着物が、着る人の魂の薬となるようにと祈りを込めました」。
表地はあえて特定の色に染めず、透明度の高い“白”にすることに。裏地には、小松さんによる手描きの“生命の樹”をテーマとした絵模様をあしらうことにしました。縫い合わせると、カラフルで躍動感のあるデザインが、透けて見えるようになっています。
「普通は表地に柄をもってくるのですが、難民の内面にある情熱や個性を表現したいと思い、裏地に色と動きをつけることを思いつきました。着物としてはとてもめずらしいデザインで、私たちにとっても初めての試みでした」と高倉さん。帯の表には陰陽の実、裏には多様性を意味するカラフルな縞模様が描かれ、着物と美しい調和を成しています。
国もバックグラウンドもさまざま、一様でない難民の背景を伝えたい、着物を通じて、日本、そして、世界の人に難民の人たちのことを知ってほしい―。高倉さんたちと小松さんの想いが込められています。
デザイン完成後は、岡野の職人たちの手に託されました。「小松さんの祈りが込められたデザインを最大限に生かしつつ、博多織の特徴も出るように、色や凹凸など、一つひとつ丁寧に確認しながら進めました」と話す岡野の製造部部長の阿比留哲也さん。パソコン上で数ミリ単位でデザインを調整しながら、経糸と横糸を丁寧に紡ぎ、世界にひとつしかない着物が完成しました。
「本当によくリサーチし、難民の現状に想いを寄せてくださいました。難民の深い部分まで表現されている本当に素晴らしい着物です」とUNHCRの職員も目を奪われていました。
そして2020年7月24日20時、東京五輪の開会式が行われる予定だった時間に、KIMONOプロジェクト全213着の着物が動画で公開されました。難民選手団の着物は、入場と同じ順番、ギリシャの次に紹介されました。
「新型コロナウイルスが収束し、難民アスリートの方が安全に来日できるようになったら、ぜひこの着物を着ていただきたいです」とイマジンワンワールド代表理事の手嶋信道さん。
言葉にできない思い、怒り、悲しみ、そして希望、愛を心の中に抱えた世界各地の難民たちが、この着物を見て、自分たちの気持ちが表現されていると感じてくれたら、そんなにうれしいことはない―。
「難民の皆さんの気持ちになって、僕たちはこの着物をつくったと伝えたい」と高倉さんは話します。
平和と共存の願いを込めて、日本各地の職人の手により織られ、染められた着物。それぞれの国や地域の文化や風景などが描かれた世界に一つしかない213の着物は、新型コロナウイルスの危機の中で、出口の見えない不安を抱えている世界を鮮やかに染めてくれました。
そして、たくさんの人の想いが込められた難民選手団の着物は、コロナ禍で練習に励む難民アスリート、そして、世界各地で困難を乗り越えようとしている難民たちの大きなチカラとなることでしょう。