【職員インタビュー】 伊藤 礼樹 UNHCRミャンマー事務所 代表代行

タイ国境カヤ州の山奥の村で帰還民から話を聴く(写真右) ©UNHCR/Jane Gabriel Holloway

 

伊藤礼樹 UNHCRミャンマー事務所 代表代行

 

<現在担当している仕事内容>

現在はミャンマー事務所の代表が離任し、新しい代表が赴任するまで代表代行としてミャンマー国内にある12のUNHCR事務所のオペレーションを総括しています。また、政府との交渉や大使館、各国連機関・NGOとの調整にも携わっています。日本からのUNHCRを含むミャンマーの国連機関に対するご支援は大変大きく、深く感謝するとともに、日本人の職員としてしっかりと結果の出せる仕事ができるように頑張っています。

<UNHCRで働きはじめたきっかけ>

アメリカの大学院で人権法や国際法を専攻し、卒業後は日本での就職が決まっていました。そんな時、たまたま読んだ英字新聞で国連ボランティアを募集している事を知りました。4月の入社まで1年近くあったので、入社式までに帰ってくればいいという軽い気持ちで応募したら、面接の一週間後に紛争中のボスニア・ビテスという町にあるUNHCR事務所に派遣されました。その後仕事も楽しくなり、JPO[1] にも合格し、UNHCRでの仕事が今まで続いています。

1]外務省が日本の若手職員を国際機関に一定期間派遣するJPO(ジュニアプロフェッショナルオフィサー)派遣制度

<これまでの活動地(国)>

JPOとしてミャンマーで正式にUNHCRの職員として仕事を始め、ボスニア、ジュネーブ本部、アルメニア、スーダン、東京、レバノン、ソマリアなどを2~3年のサイクルで転々としました。主に難民・国内避難民の保護・庇護活動が中心でした。

<これまでの活動の中で特に印象に残っていること>

国連ボランティアとして放り込まれた紛争地ボスニアは原体験として今でも鮮明に覚えています。民族浄化を受け、村を追い出されたばかりのイスラム系ボスニア人のグループに黄昏の谷間の道で出会いました。いたのは男女、子どもを含めた数十人。そこにAK-47(自動小銃)を持ち、目が真っ赤なクロアチア系武装勢力の司令官が来て「男は置いてけ。女、子どもだけ連れて行っていい」と言われたときのジレンマ。今考えただけでもゾッとします。

<JPOで派遣された当時のミャンマーと比べて、

違いを感じること、また変わらないと感じることは何ですか?>

もうまったく別の国ですね。車が多くなり、ヤンゴンでの渋滞は悲惨です。人々も自由に物事が言えるようになり、社会が明るく躍動している感覚があります。でも、ミャンマー人の人あたりの良さと温かみは全く変わりません。

<現在直面している課題>

ミャンマーでの支援活動は多くの課題を抱えていますが、それよりも根本的に人道援助という概念・活動体系自体が曲がり角に来ているような気がします。理由や正当性はともかく、自然災害や紛争があると多くの国連機関とNGOが現地に集います。それに伴い複雑な調整メカニズムができ、現場の活動と結果よりも調整会議への出席、戦略作り、合意文書の作成などの過程が重視されるようなことがあります。またそれに伴って諸活動のマニュアル化が進み、「智慧があり、柔軟性、創造性に富むリーダー」が少なくなってきているような気がします。人道援助の産業化と官僚化にどのように向き合い、現場で即効性のある結果が出すかというのが今直面している課題です。

<やりがいを感じるとき>

やはり現場で結果が出る時が一番やりがいを感じます。特に、非常に難しい背景を持つ難民の第三国定住が決まったり、帰還してくる難民や避難民を迎えるなど時などは「UNHCR冥利に尽きる」と感じます。

<好きな本・映画など>

遠藤周作の「沈黙」、ニーチェの「善悪の彼岸」など仕事にも役立つ本が好きです。同様に映画も気の滅入るフランシス・コッポラの「地獄の黙示録」を数十回見て、台詞もかなり覚えています。人間の究極の選択、価値観とは何かを問うような作品が好きです。

<今後の展望・夢>

現在家族はナイロビ、私はヤンゴンという単身赴任生活なので、なるべく早い時期に一緒に生活できるようにしたいと考えています。また今後は、人道援助の意味、必要性、正当性を真剣に考えて自分なりの立場を構築したいと思います。

 

プロフィール /伊藤礼樹

東京都生まれ。1992年国連ボランティアとしてボスニアの人道援助活動に参加して以来、UNHCRで難民支援を続け、ミャンマー、スーダン、アルメニア、レバノン、ソマリアなどで活動後2013年1月より副代表に就任、11月から現職。家族は妻と一男一女。

(2013年11月15日)