「夢のような気分です。難民、医療従事者を代表してこの任務を得たことを誇りに思います」
先週、世界的な注目を浴びた瞬間についてそうツイートしたのは、オリンピック難民選手団の29人の代表の一人、シリル・ファガト・チャチェット2世選手(25)。東京2020オリンピック競技大会の開会式で、バドミントン日本代表の桃田賢斗選手らとともに五輪旗を運ぶ大役を担った難民アスリートです。
これまでシリル選手が経験してきた壮絶な旅路は、スポーツが故郷を追われた人の人生を変えるチカラがあるということ、そしてチャンスさえあれば、新たなコミュニティに価値ある貢献ができるということを表しています。
2014年、スコットランド・グラスゴーで開催されたコモンウェルスゲームに参加した後、シリル選手は選手村を離れました。自国に帰ることは安全ではないと思ったからです。
特に計画があったわけでもない、イギリス南部沿岸の街グラスゴーにたどり着き、路上で2カ月過ごしました。外は寒く、食べ物もなかなか手に入れることができず、気持ちは沈んでいきました。
「知らない街で家もなく、自分の面倒をみてくれる母も父もいない。当時19歳だった私は、ブライトンで本当に孤独で絶望していました。実は、自ら命を絶とうとすら思いました」。シリル選手はEurosportの取材にそう答えています。
そんな時、こころのケアをサポートする慈善団体サマリタンズのホットラインの番号を見つけ、電話をかけました。そしてボランティアが警察に彼の保護を依頼し、警察署で状況を説明し、庇護申請の手続きが始まりました。
バーミンガムに住まいを得て、庇護申請の結果を待つ不安な日々を過ごしました。うつ病と戦っていたのもこの時です。しかし、ウエイトリフティングが支えとなり、イギリス国内の大会にも出場するようになりました。
そして難民認定を受け、シリル選手は次々と記録を更新し、2017年から3年連続で国内の大学選手権でタイトルを獲得しました。
コミュニティに恩返しをしたいという思い、そして自分を暗闇から救ってくれた医師や看護師の影響もあり、シリル選手は看護学を学ぶことを決意し、ミドルセックス大学の精神看護学部を優秀な成績で卒業しました。
大学のジムで週5日トレーニングに励んでいましたが、学業ともうまく両立していたと、精神看護学部のローレンス・ダジエ上級講師は話します。
「私は昼間は看護師、夜はウェイトリフティングの選手です。自分を助けてくれたコミュニティに恩返しがしたくて看護学を学びました。皆さんに勇気を与える存在になり、そして、こころの健康の改善にも役立つことができたら」と、今年1月のツイートでそう語っています。
シリル選手は熱心な生徒で、“聞き上手”だとダジエ講師は話します。それは、精神看護の看護師として最も重要な素質だと。
また、シリル選手の難民としての背景、うつ病との葛藤の経験は、患者への共感にもつながっていると担当教員は話します。「こころのケアを必要とする患者の気持ちをより理解できる。そして、そんな自分にできることがあるはずだと感じているようです」。
シリル選手は試合で好成績を出しても、周りに話すことはあまりないと言います。大学ではポスターを掲示して勝利をお祝いしたりするそうですが、「それを目にしなければ、シリル選手の活躍を誰も知りません。自分からはあまり多くを話さないのです」とダジエ講師は話します。
シリル選手がウエイトリフティングを始めたのは子どものころ、いとこの父親がウエイトリフティングをしている写真を見たことがきっかけでした。彼にとって、ウエイトリフティングはスポーツ以上の存在です。
「ウエイトリフティングを通じて、たくさんの出会いを経験し、社会との関わりもできました。一度始めるとやみつきになるスポーツですね」と、Sky Sportsのインタビューで語っています。「ただ楽しいですし、自分の成長や達成を測るのも簡単です。毎日ジムにいくたびに何かを学んでいます。それは技術的なことであったり、2キロ多く挙げられるようになったりとか。常に成長の可能性があって、精神の安定にもつながり、達成感も感じることができます」。
シリル選手はフランス語と英語が堪能で、実は甘党なんだとか。この土曜、オリンピック難民選手団の代表として、ウエイトリフティング男子96キロ級に出場します。目標はスナッチで190キロ、クリーン&ジャークで230キロを挙げること。モットーは「目標を達成するために、計画を立て、懸命に努力すること」です。
「オリンピック難民選手団は・・・、希望のチームですね」。シリル選手はそう表現します。
「ほかの難民に伝えたいのは、信じること、そして希望を持つこと。今日は困難な日かもしれない、でもきっと未来は明るいはずだから」
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