「自宅からこの森まで走ればすぐなんですよ。気持ちを切り替えたい時は走るんです。こころとからだの健康にもつながっています」
2016年のリオ五輪で初結成された難民選手団の代表に選ばれて5年、マラソンランナーのヨナス・キンディ選手は、薬局事務の資格取得のための勉強、病院内の薬局での新型コロナウイルスのワクチン配布の仕事と併行してトレーニングを続けています。
でも、長距離競技にまだ野望はあります。昨年、新型コロナウイルスに感染し隔離生活を送っていた時期以外は、今でもトレーニングをしない日はないといいます。
「とても厳しい時期でした。本当にトレーニングが恋しかったです。友達が “いつも一緒だよ”と電話などで声をかけてくれて本当に励まされました」
難民にとってスポーツは、自信を得たり、新しいコミュニティになじむために必要なツールです。
「スポーツを通じて、ルクセンブルクだけでなく、世界中に“家族”ができたんです」
コロナ禍の隔離とロックダウン中、ヨナス選手の助けになった友人の多くは、スポーツを通じて知り合いました。
ヨナス選手が走り始めたのはエチオピアにいた10代のころ。その時はバス代を節約して、お菓子などを買うためでした。
「学校には走って通っていました。16キロあったんですけど、その時はそれが競技に役立つことは考えてませんでした。ただ学校に行くために走っていたので」
そんなヨナス選手に、試合に出てみるようにすすめてくれたのは学校の先生でした。
その後、故郷のエチオピアを追われ、ヨーロッパに着いたのは2012年の冬、内陸のルクセンブルクに逃れました。2013年に庇護を受け、ルクセンブルク国内でも有数のマラソンランナーとして、フランス、ドイツの大会でも入賞を果たしました。
国際オリンピック委員会(IOC)による2016年のリオ五輪の難民選手団の代表発表は「決して忘れられない瞬間」でした。男子マラソンに出場し、オリンピック村では他の難民アスリートと交流する機会もあり「とてもと特別だった」と振り返ります。
新型コロナウイルスのパンデミックの影響で、難民アスリート初のエリート選手として2020年3月の東京マラソンに出走したのを最後に、国際大会には出場できていません。
「ほんとうに大会が恋しい。皆さんからの応援も恋しい」
今はルクセンブルク語に加えて、ドイツ語、フランス語、英語も話すことができます。そして2020年末、ルクセンブルクで庇護を受けて7年、ついに国籍を取得しました。
「ちょうど仕事を探していた時期で、いろいろな人と接する機会も増えていたころだったので、とても良いタイミングでした。これでスポーツでルクセンブルク代表にもなれます」
ヨナス選手はもはや難民ではないため、この夏東京に向かうオリンピック難民選手団の代表資格は失いました。でも、先月発表された29人の難民アスリートの代表に声援をおくります。
「オリンピック難民選手団は、難民アスリート、そして世界中の難民の希望の象徴です。ぜひメダルを取って、#難民とともに のメッセージを世界に発信してほしい」
コロナ禍では、世界各地で難民の医師、看護師、ヨナス選手のような薬局スタッフが、感染拡大を防ぐために奔走し、感染者を治療したり、ワクチン接種をサポートしたり、まさに最前線で活躍しています。
「困難な時期であることには変わりありませんが、なにかに貢献できていることがうれしいです。自分も感染した方々になにかできることがあるのだと」
ルクセンブルクで学びを続ける機会を得て、将来の夢も広がります。いつかルクセンブルクに恩返しができるような技術を身に付けたいと意気込んでいます。そしていつか、ルクセンブルクに逃れてきた難民たちにスポーツを指導し、自分が経験したような貴重な財産を得てほしいとも願っています。
「走ることは私を強くしてくれた。人と関わり、自分を見つけることもできたのはマラソンのおかげです」
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