© UNHCR/Caroline Gluck
MIYAVIがバングラデシュのコックスバザールを訪れる5日前、8歳の少年ヌラルは家族と一緒にクトゥパロン難民キャンプに到着し、難民たちの“一時的な家”であるキャンプの一員となりました。
2月初旬、UNHCR親善大使のMIYAVIはバングラデシュを訪問し、ヌラルをはじめ何百人ものロヒンギャ難民に出会い、絶望、希望、安全に家に帰りたいという願いなど、さまざまな話を聞きました。
アンジェリーナ・ジョリーUNHCR特使は十数年にわたり、強制的に故郷を追われた人々を熱心にサポートしてきました。今回、友人でもあるMIYAVIがバングラデシュを視察中だと聞き、地球上で最大規模といわれる難民キャンプで暮らす人たちと出会い、彼がどう感じたかを知りたいと思ったといいます。
2016年にUNHCR ver.も発表されたMIYAVIのミュージックビデオ “The Others”で、MIYAVIと共同プロデュースも務めたジョリー特使。その中では、MIYAVIが2015年に初めてUNHCRの活動現場を視察したレバノンの映像を含め世界各地の難民が登場しています。
アンジェリーナ・ジョリー特使(以下、A):私は難民と出会うたびに、彼らと話をしたり、何を必要としているか伝えること以外に、もっとできることがあるはずだと感じてきました。でもMIYAVIには音楽がある。難民の子どもたちの前でギターを弾く映像を見た時、これこそ大切なことだと感じたんです。音楽が喜びや楽しさをもたらすからだけではない。愛するものから引き裂かれ、生きていくだけで精一杯な毎日でも、難民たちの中にたくさんの“音楽家”がいることが伝わってきたからです。
何かを“創造的に表現すること”は生きていくために必要なツールで、人生において欠かせないことです。
MIYAVIはこれまで難民キャンプを訪問して、音楽を演奏してみてどう感じましたか?
MIYAVI(以下、M):ジョリー特使の活動に刺激されて初めてレバノンの難民を訪ねた時、正直怖いという気持ちがありました。知識も経験も、あなたのような強い決意もなかったからです。
でもギターをかき鳴らすと、子どもたちの目がぱっと輝いたのです。とたんに熱狂し、そのエネルギーに圧倒されました。それまで「難民」という言葉を聞くと、どこか暗い、希望もなく、重荷を背負い、常に下を向いているといったイメージがあったのですが、完全に消え去りました。彼らは生き生きとしていました。特に子どもたち、彼らの目は死んでなんかいなくて、僕たちの目よりもずっと輝いていて力強かった。その姿を見て、自分の音楽を通じて何かできるかもしれないと気づいたのです。
ギターを持っていても、戦場で銃を持った人間に対峙した人々を守ることはできません。でも音楽を通じて、人の考え方を変えることはできるかもしれない。音楽は世界をすぐに変えることはできないけれど、人々に変化をもたらし、影響を与えることができる。そうして音楽から影響を受けた人々が、ゆくゆくは世界を変えることができるかもしれません。音楽家としての使命の一つが、ここにあると確信しました。
A:MIYAVIとは家族ぐるみの付き合いで娘さんたちもよく知っていますが、難民キャンプでは同世代の女の子たちにも会ったと思います。どんな子たちがいましたか。同じ父親として、子どもが今必要としているものをあげられない、キャンプで暮らす父親たちに共感することもあったのではないでしょうか。
M:多くの罪もない子どもたちが、きちんと教育を受けられていませんでした。もちろん、緊急時には食糧、水、健康が最も必要だとは思いますが、その次に重要なものの一つは教育です。それこそ、親たちが一番悩んでいることだと思います。
レバノンでギターのコードを左手でいじっていた時のことです。難民の子どもたちにも弦をさわってもらおうと、みんな列をつくって待ってくれていたのですが、何人かが喧嘩を始めたんです。殴り合いの喧嘩です。これは大変だと心配になって、その場にいた難民の大人たちに大丈夫なのか聞きました。でも、子どもの喧嘩だからと。確かにこれは、ただの子どもの喧嘩かもしれません。でも、正しい教育を受けず、他人と物を一緒に使うことの大切さや、互いの違いを認め、協力し、尊重し合うかを学ばなければ、将来それが争いの引き金になるかもしれません。
A:バングラデシュでは、難民の父親たちは会いましたか。
M:数日前に難民キャンプに着いたばかりというロヒンギャの家族に会いました。3人の子どもたちの父親であるアブル(30)は、ブローカーに10万チャット(約8,000円)を支払わなければならなかった上に、荷物と所持金すべてを取られたと言っていました。奥さんのハミダ(30)は、「家族の命を救うために、ここに来ることを決めた」と。もし同じことが自分の家族に起こったら・・・、想像は簡単ではありませんが、同じ行動をとったと思います。家族を守るためなら、絶対にどんなことでもすると決めているからです。
A:自分の家族が、このような状況にいるところを想像できるでしょうか。
M:とても難しいです。でも、想像できなければいけないと思います。難民と呼ばれる人々は、もともとは僕たちと同じような生活を送っていた。帰る家があり、誇れる仕事があり、そして夢がありました。
平和は、当たり前に存在するものではない。難民危機を止められなければ、近い将来、同じような問題が自分に降りかかってくる。だからこそ、世界的な問題として考えることが重要なのです。危機が起こっている地域だけではなく、この地球に住むすべての人々が解決に向けて取り組むべきです。それができなければ、最終的には自分のところに戻ってきて困ることになるということに、みんなが気づかなければいけません。
A:私自身は11年前インドに行った時に、初めてロヒンギャ難民に会いました。彼らは、世界がやっと自分たちの窮状を知ってくれたと感じているでしょうか。それとも今、すべてを失ってしまったと絶望しているのでしょうか。現場ではどんな声が聞こえてきましたか。難民の家族は、世界から見捨てられた存在だと感じているでしょうか。
M:外とのつながりが基本的にないので、自分のコミュニティの外で起こっていることについてあまり分からないのではないでしょうか。でも、世界から孤立してしまったと感じているとは思います。仕事に就くことができず、選挙で投票もできない、合法的にキャンプの外に行くこともできない。アイデンティティだってない。彼らはまるでカゴの中の鳥のようです。
A:タイ、レバノンの訪問と比べて、バングラデシュで違いは感じましたか。世界最大規模の難民キャンプで、人々は最も何を必要としているのでしょうか。
M:最初はキャンプのスケールの大きさに圧倒されました。同時に彼らは今、UNHCRや他の援助機関、NGO、バングラデシュ政府に守られているのも確か。それは今回、素晴らしいと感じたことのひとつです。
A:現地でたくさんの人と出会って、何が一番印象に残りましたか。
M:バングラデシュに1992年に初めて来て、1995年にミャンマーに一旦戻り、また20年ぶりにバングラデシュに逃れてきたという男性と話をしました。1970年代からバングラデシュに3回避難したという人にも会いました。
彼らはそもそも国籍のない人たちです。家を焼かれ、家族を目の前で殺され、精神を完全に打ちのめされている。そんな悲惨な経験を経てもなお、自分の国に帰りたいと思っていることを知り、心が締めつけられるような思いがしました。彼らはここからでも自分たちの国が見えていて、今にも届きそうに近く感じられるのに、実際にはとても遠くにあるのです。
A:現地で出会った子どもたちから、どんなメッセージを受け取りましたか?
M:希望です。彼らの目は死んでなんかいない。これこそ、私たち大人が守るべきものです。未来を担っていくのは子どもたち自身。世界が団結して生きていくために、子どもたちの生活環境や教育の機会などを整え、正しい方向に導いていく責任があります。
A:UNHCRの活動現場で難民と出会い、MIYAVI自身に変化はありましたか?
M:より強い決意と責任が芽生えました。このような機会と使命を与えていただき感謝しています。これからもUNHCR親善大使として、自分の最善を尽くすことを約束します。
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