1月20日(金)、立教大学で『海は燃えている〜イタリア最南端の小さな島〜』特別上映付きシンポジウム「ジャンフランコ・ロージ監督、学生とともに難民・移民問題を語る」が開催されました。映画上映後のシンポジウムには、ジャンフランコ・ロージ監督のほか、長有紀枝さん(難民を助ける会理事長/立教大学社会学部 21 世紀社会デザイン研究科教授)、立教大学の川口航さん、東京大学の渡部清花さん、慶応大学の久保田徹さんが登壇されました。モデレーターはUNHCR駐日事務所の守屋由紀広報官、司会は立教大学教授で作家の小野正嗣さんが務めました。
シンポジウムの冒頭では、緒方貞子第8代国連難民高等弁務官から寄せられた映画へのメッセージが紹介されました。「この映画は静かに教えてくれる。同じ地球で、住む場を追われ、海を渡る人々と私たちは共に生きている。ひとりでも多くの方に観ていただきたい」
守屋:まず登壇者から一言ずつ自己紹介と作品の感想をお願いいたします。
ロージ監督:非常にたくさんの方がいらっしゃって驚きました。このような場に呼んでいただいて本当にありがとうございます。作品も観ていただいて、大変嬉しいです。これだけの方々がシンポジウムを通して、日本ではあまり知られていない難民や移民の問題をより知っていただける機会を得られたことを嬉しく思います。先ほど登壇者の久保田さんが撮影したロヒンギャ難民のドキュメンタリーを別室で観ていましたが、ロヒンギャ難民が日本にも滞在しているということで、難民問題はその国のローカルな問題ではないと強く感じました。難民問題は世界中で起きている緊急を要する問題であると思います。大切なことは、より多くの国がより責任感を持って、難民、移民の受け入れを考えていくことだと思います。
難民、移民の問題を本作品を通して考えていただけたらと思うと同時に、この作品はランペドゥーサ島の人々の物語でもあります。ランペドゥーサ島はこの15年間、様々な悲劇や戦争から逃れてきた方々を受け入れる玄関口でありました。難民、移民の方は違う人生を求めて決死の思いで旅に出て、海を越える途中で命を落とすことも多いわけです。こういう世界情勢を考えると、ランペドゥーサ島は本当に小さな島ではありますが、今世界で起きていることのメタファー(隠喩)のように感じます。残念なことに、この2つのグループ、海上で救助された難民、移民は島の一時滞在施設に移送されるため、実際に生活している人々と、難民、移民のグループが出合うことがない。これは組織化されているからです。
64ヶ国で配給されているこの作品をベルリン映画祭で上映してから、私は世界中を旅してきました。「なぜ作ったのですか」とよく聞かれますが、映画単体が歴史の流れを変えることはできないけれども、何かを知るきっかけにはなると思っています。この作品が皆さんが知るきっかけになると嬉しいと思うと同時に、映画の前半で救助を求める声に対して、沿岸警備隊が「What’s your position?」と問いかけます。地理的な位置を聞いているわけですが、この言葉を繰り返します。反対に、私はこの作品を観た人に、この悲劇に対してあなたのポジション(立ち位置)は何か、そして自分には何ができるのかを考えていただきたいです。それが変化の始まりになるかもしれません。今夜観ていただいた皆さんの中の数人でもそういう風に考えていただければ、1年半ランペドゥーサ島で過ごした時間、そこで目撃した喜び、悲劇的な痛みなど、制作した甲斐があったと思うことができます。
長さん:監督が説明されましたが、小さい島で起きていることですが世界で起きていることのメタファーだという思いを持ちました。シリア、スーダン、ウガンダなど、世界中で起きている難民問題と、まったく関わりのない生活が先進国で営まれています。無関心でいようと思って無関心でいるわけではなく、人々は一生懸命自分の生活を送っています。ただ、こうした生活と難民の人の生活が交わることはなく、たまに交わる接点はテレビのニュースだったりします。映画の中で医師が出てきましたが、難民支援に携わる私自身、難民問題ではその医師と同じ役割を担っていると思っています。また、映画自体が医師の役割をしているとも言えると思います。難民問題に関心を持った人はもはやどちらかの世界で生きるわけではなく、医師と同じ役割を持っているのではないでしょうか。ランペドゥーサ島に行かなくても、誰でも交わることがない世界をつなぐ人になり得るのではないかと。
難民を助ける会は1979年に設立した組織です。ランペドゥーサ島にたどり着く人と同じように、ベトナム、ラオス、カンボジアからボートピープルとして人々が避難してきました。日本にたどり着いた人もいれば、遭難してしまったり、海賊に身の回りのものを奪われたり、女性はレイプされたりもしました。そうして逃げてきた人が日本にもいます。そんな年にできた組織です。
渡部さん:Welcome Refugeeという意味の「WELgee」という団体で活動しています。日本のコミュニティで難民を受け入れていくことを事業の柱にしています。難民は日本人と触れ合う機会や接点がないことが多いです。日本人としては難民について知りようがない、ということもあり、私もその一人でした。この映画を観ていて、島民と島にたどり着く人がいつ交わるのかと思っていましたが最後まで交わらず、監督にも聞いてみたいことがたくさん生まれました。このシンポジウムには日本で暮らす難民の人も参加していまして、生まれた国や置かれた状況は違っても、同じ世代の若者で、同じように笑い、怒りますし好奇心も旺盛です。今日最初の交わるポイントができたら嬉しいと思います。
川口さん:活動する学生団体「Re:Free」は、難民が日本で生きる自由を得るということで名づけられました。学内でシンポジウムや上映会を実施し、学生に日本に難民がいることを知ってもらうために活動しています。この作品は、余白がとても多いと思いました。観客に常に考える時間を与えてくれると。単純に観ればすぐに終わってしまう映画だと感じましたが、映画が与えてくれるもの、視覚的に見えるもの、こうしたものを難民問題を知らない人が観たらどのように感じるかというのが気になりました。
ロージ監督:渡部さんが、「二つの世界がなぜ出会わないのか」という重要な点を指摘してくれたのでお答えしたいのですが、それは私の選択ではありません。これが現実だからなのです。
絵を描きながら説明したいと思います。ランペドゥーサ島はイタリア本土とリビアの間にあります。4〜5年前は、海には国境線がないため、難民が直接ランペドゥーサ島に到着していました。ただ4年ほど前から、イタリアでは、難民、移民の捜索・救出活を行う「マーレ・ ノストルム作戦」が行われ、今では欧州対外国境管理協力機関(FRONTEX)による「トライトン作戦」が行われています。その際に、国境がランペドゥーサ島から海に変更になりました。その国境付近でイタリア軍やイタリア沿岸警備隊が捜索、救助を行っています。
そのため、現在では難民や移民が直接ランペドゥーサ島に上陸するわけではありません。海上で救助され、ランペドゥーサ島に移動します。ただし、ランペドゥーサ島の施設には2〜3日しか滞在せず、イタリア本土に移動します。そのため、難民・移民と島民という2つの世界が生まれるのです。島民が難民や移民と直接やり取りをするのは不可能に近いです。私は施設に行くことができましたが、次々に新しい難民、移民が到着するため、やり取りをするのは非常に難しかったです。
この2つの世界をつなぐ唯一の接点が、バルトロ医師です。先ほども申しましたが、この状況は世界で起きていることのメタファーなのです。お互いに交わることがない、2つの世界。こんな小さなランペドゥーサ島でさえ、こんなに巨大な分離があり、世界のメタファーとなっています。なぜ唯一の接点が医師なのか、と質問されたら、それが世界の現状だからと答えています。
4〜5年前であれば、少年のサムエレもエリトリアやエチオピアなどからの難民、移民と一緒にサッカーをしていたかもしれません。この映画は、2014年に撮影を始め、2016年に完成しております。
久保田さん:所属する学生団体「SAL」でミャンマーで分断されたロヒンギャ難民を取材して、ドキュメンタリーを作りました。私は、ロヒンギャ難民のために、そしてこの現状を変えるためにドキュメンタリーを作りたいと思っていました。そのため、この映画を観たときに、メッセージがたくさんあり混乱してしまいました。自分が作品を作ったときは、何とかしなければいけないという一つの分かりやすいメッセージを込めたつもりでした。本作品は、受け取り方によって解釈の仕方がたくさんあり、川口さんが言ったように余白が多いので、観る人によって見解が異なると感じました。観る人に解釈を委ねるのは無責任なのではないかと思いましたが、ロージ監督が問題を解決するためではなく、きっかけを与えたいとおっしゃっていて、なるほどと。観た方に様々な受け取り方を共有してもらえたらと思います。
守屋:学生の御三方から監督に質問があったらお願いします。
久保田さん:この作品をランペドゥーサ島で上映したという記事を読みました。島民の受け止め方をお聞きしたいです。
ロージ監督:上映したときは非常に感動的でした。ベルリン国際映画祭で最高賞を受賞した際のスピーチで、「この作品をランペドゥーサ島の人々に捧げます」と言いました。ランペドゥーサ島での上映までは、ベルリン国際映画祭から4〜5ヶ月待たなければいけませんでした。島には映画館がなく、暖かい季候になってから広場で上映したからです。5月に上映したとき、3000人近くの人が集まってくださって、ほぼすべての島民と言えるほどでした。それにも感動しましたし、終わってからも、「一時滞在施設があるのは知っているけれど、どこにあるのかも知らなかった」、「何か緊急で起きていることは分かっていたが、実際の状況を知らなかったので、教えてくれてありがとう」などという言葉をかけてもらいました。島はヨーロッパに行く難民、移民の玄関口ですが、世界のほかの場所と同じようにラジオなど報道を通じて情報を知るのです。少年サムエレは上映後、小さなスターのようになっていました(笑)。ベルリン国際映画祭には、バルトロ医師も参加してくれ、最高賞の「金熊賞」を島に届けてくれました。
渡部さん:ランペドゥーサ島にたどり着くまでも大変な道のりだと分かったのですが、その後難民、移民はどこに行き、その後の生活が気になりました。どのような思いで、一時滞在施設で過ごしているのか知りたいです。
ロージ監督:ランペドゥーサ島は長い道のりの最初の一歩にすぎません。何ヶ月もかけて島にたどり着きます。その道のりの厳しさは、映画の中で出てくるナイジェリアからの難民が音楽のラップで歌い上げています。それを聞くだけでも、生活がいかに過酷か、歴史を目撃するような衝撃的なシーンの一つであったと思います。ナイジェリアを後にし、砂漠を越え、リビアにたどり着き、そこで過酷な環境におかれます。その後、命を賭けて海を越えようとします。多くの人が亡くなりますが、なぜ命を落とすかもしれないのに海を渡るのかと聞くと、リビアで生活していれば待っているのはどうせ死であり、だったら死ぬ“かも”しれないが生きる“かも”しれないという、その可能性にかけたということでした。一時滞在施設では難民、移民の間にそうした希望が感じられました。
ただ、残念ながらランペドゥーサ島は最初の一歩にしか過ぎないので、長い道のりは非常に厳しいと思います。イタリア本土により大きな難民、移民の受け入れ施設があるので、そこに移動することになります。その後は、庇護申請の手続きを行うことになります。手続きには数年かかるケースもあれば、祖国に送還されるケースもあります。(難民や移民に対する)政治的な状況はまだまだ望ましいものではなく、ヨーロッパ各国が協働してくれないこともあります。イタリアがベルルスコーニ政権だったときに協定が結ばれ、庇護申請は到着した国で行わなければいけないことになりました。ただ、イタリアに到着しても、その先にスイス、フランス、イギリスなど目指す所が違ったり、先に家族や親戚が避難している人もおり、認定されるまでその場所に留まらないといけない、というのは不条理な話だと思います。そういった生活をしていく中で未来への希望を失い、そこから社会的な問題や葛藤が生まれているのだと思います。
川口さん:映画の描き方について、難民よりも島民を描く時間が多いと思いました。事実を描く映画だとしたら、半々であるべきではないでしょうか。なぜそこで島民の生活により注目したのか教えてください。
ロージ監督:先ほど説明したように、法律により難民、移民は島に2〜3日しか滞在することができません。現実的には、ランペドゥーサ島の滞在は一時的なもので、こうした人々はどんどん通り過ぎていくため、島民と深い関係を築くことは不可能です。2つの世界を50:50で描いたら、政治的に正しすぎるのではないかと思うのです。映画を使って悲惨な現実を描く際に、前景に据え置く必要はないと思います。悲劇は背景として描いています。そうでなければ官僚主義的になりすぎると思います。
1年半島に滞在して島民と関係性を築き上げて描いた作品です。難民、移民は2〜3日しか滞在できないため、こうした描き方になっています。ただ、先ほど申し上げた3分間のラップのシーンは、10万もの取材、10万時間の撮影と同じくらいの力を持っていると考えています。これだけで彼らの過酷な状況が分かりますし、そういうことを伝えられなければ偽善だと思います。
サムエレの世界は、我々のメタファーになっていくという点もあったと思います。難民、移民の問題をサムエレを通して、より理解できるようになるのではないかと思います。彼は自分の世界を持った少年で、大人が難民、移民問題に対して感じているものを表現しています。彼が訴える不安感、片目の弱視、サボテンを敵に見立てダメージを修復する姿に、我々のメタファーを感じました。バルトロ医師はこういう問題を意識するメタファーでありますが、この問題とどう向き合ったらよいのかという不安をサムエレが表現しています。映画はサムエレの青春物語でもあり、大人になる過程で人生とどう向き合っていけばよいのか、という彼が感じている未知なるものへの不安感。これは、海を越えてやってくる未知なるものへの我々の不安でもあります。また、弱視は見えていないことのメタファー。治っていって見えていくことのメタファー。サボテンを敵に見立てて敵を作ってしまうこと、サボテンを修復しようとすること。50:50で描くのが大切なのではなく、いかに物語性を作り上げることができるかが、映画作家として大事だと考えています。登場人物の内なる世界がきちんと描かれているからこそ、映画の最後で難民、移民の死を観客は受け入れることができると思います。
この作品を撮影するそもそものきっかけですが、ランペドゥーサ島の話を撮りたかったのです。ニュースのたびにランペドゥーサ島が取り上げられますが、そこに住む人のことはまったく無視されています。15年間難民や移民の玄関口となっていたこの島の、死や難民、移民問題への恐怖心など、視点を変えた作品を作りたいと思いました。
守屋:学生を教えている長さんの立場から、学生の活動がさらに実を結ぶために何ができるかコメントをいただけますか。
長さん:難民を支援する活動を始めた、ということですでに実を結んでいるのではないかと思っています。「私一人が始めても世界は何も変わらない」とシニカルに考えることは簡単です。ランペドゥーサ島をはじめ世界は過酷すぎて、私たちが絶望してはいられません。であれば、何か一つでも始めたらいいのではないか、と思います。ここに来ている方々は遅い時間にも関わらず話を聞いていらっしゃる。その時点で踏み出していると思います。そして、それを実践しているのが、登壇している学生の皆さんだと思います。
監督に質問があります。映画の中で、女性がベッドメーキングをする印象的なシーンがあります。長期間滞在されて、たくさんの映像がある中でなぜそのシーンを選んだのか教えてください。
ロージ監督:映画の構造的に言いますと、積み重なって死の瞬間を迎える構造になっています。そこから20分は沈黙の時間で、死を悼む時間です。それぞれの人が、それぞれの形で死を悼んでる姿が描かれています。ベッドメーキングのシーンは、亡くなった夫のベットを作り、親族が写る写真にキスをする。とてもぐっと来る瞬間があると思います。そしてDJも強い音楽に耳を傾けている。そして、サムエレも最初は鳥を殺していましたが、最後には鳥に語りかけています。あれは合成ですか、と聞かれますが、本当に起きた瞬間を捉えたものです。素晴らしかったことは、少年と鳥が何かの秘密を分かち合っていたことです。サムエレと同じくらいの生徒たちと話すときは、このシーンでどんな会話がなされたかを綴ってみてくださいと言っています。そこにこの映画の本質、エッセンスがあるからなんです。ご質問に戻りますと、あのシーンは死を悼み、何かが変わっていくシーンです。
(通訳より)補足しますと、ロージ監督はほとんどカメラを回さない監督で、1年半滞在して撮影されていますが、最初にこの登場人物を撮ると決めたならば、ほかの人には一切カメラを向けていません。
ロージ監督:ぜひ学校の授業でこのシーンについて、書いてみてください。そうしたら、ぜひ全部読ませていただきたいです(笑)
守屋:会場の皆様からご質問はありますか。
質問:日本社会のドキュメンタリー映画を製作していただきたいです。なぜ難民、移民の受け入れが進まないのか、日本人独自の気質が関係しているのではないかと思っております。多様な人々と一緒に暮らすというのに非常に不慣れな国民性を持っています。外国人観光客には過剰なまでのおもてなしをしますが、これは観光客は帰るからです。いったん難民や移民として一緒に住むとなると、手を返したように冷淡になってしまう。これは日本人独特なものだと思います。私自身も変えていきたいと考えておりますが、根の深い問題です。これをぜひ映画で描いていただいて、私たち自身も考えていくべきだと考えています。
ロージ監督:私は25歳のときに1ヶ月間東京に滞在したのが、初めての来日でした。日本に魅了されて、何か作りたいという気持ちはありました。数年前に前作『ローマ環状線、めぐりゆく人生たち』のプロモーションで来日したときも同じような気持ちでした。イギリスのケンブリッジ、ロンドン、ニューヨークでも長期間にわたり大学院のクラスを教えたりしていました。日本の学生と一緒に半年から1年かけて映画を製作してみたいと思っています。今ここでそれをオファーさせてください。その期間を通して、日本社会の謎に迫れればと思っております。
質問:レスキューに携わる人々が気になりました。人はどれくらいの期間で変わるのか、レスキューに関わった後の心情を教えてください。
ロージ監督:乗船は自分にとって重要な経験でした。40日間、20日を2回ということなのですが、サムエレと同じで船酔いするので、毎日酔い止めを飲んで挑む大変な経験でした。そもそもカメラを持って乗船するための許可を得るのが大変でした。最初に乗船したのは捜索船ではないのですが、寝食を共にし、キャプテンのオリビエ船長、船員たちとすばらしい絆を育むことができました。海での時間は終わりがないような感覚なんです。ただ、船員のアイデンティティを見せないのはわざとです。それを見せると、それはまた違う物語になってしまうと思ったからです。難民の人がいるかもしれないと捜索し続ける幽霊船のようなイメージで描こうと考えました。
20日の間に強い絆が生まれ、私も彼らの海上生活の一部になっていました。ただ、一度目の乗船では、使える映像がなかったので再申請しまして、また同じ船に乗ることができました。今回は前線で捜索をする船で、そこで死と出会ったのです。捜索する小さな船に5〜6回乗り、何も起きない日が続いていましたが、死が自分の足元にやってきました。すぐさま撮影の決断をしなければならず、撮影することにしました。これは、人生で忘れられない瞬間です。40〜50人が船のエンジンの煙で、ナチスのガス室のような形で亡くなったと船長が説明してくれました。そして、船長は私に言いました。「きみには、亡くなっている人を撮影する義務がある。そして、世界に知らせる義務がある」と。その時は撮影しましたが、これ以上は撮ることができないと思い、撮影を止め、編集の担当者に連絡をして編集作業に入ることにしました。
船員はほかの人の命を救うために大変な努力をしていました。それを私は知りました。イタリアの海軍、沿岸警備隊の掟というのは、海上で救助を求める声があれば、何があっても助けなければいけません。これは政治とは一切関係ありません。イタリア政府が救助しなくてもよいと言っても、救助に行くと思います。交代して出動するようですが、船の数も多く、救助に関わっている人は多いと言うことでした。船員と強い絆とサポートがあったからこそ、撮影できたのだと思います。それがなければ、亡くなった方と対面しても気持ちの上で撮影できなかったと思います。
質問:監督はどのような気持ちで撮影をしていたのか教えてください。元々、社会派の映画を観るのは苦手です。「自分は何をしているのか」と責められているような気持ちになるからです。でも、サムエレの姿を観て参加者の方々が笑っていて、肩の力を抜いて観ていい映画なんだと感じました。最後のエンディングの曲も明るい曲でしたし、監督もやさしくて面白い方なのでますます救われました。
ロージ監督:瞬間的に非常に怒りを感じることも多かったです。死に出会った場所は、リビアからたった11マイルしか離れていない場所でした。船が出発して5時間ほどのところで、なぜ何も行われていないのか、大変な怒りを感じながらカメラを回していました。毎日25万人がリビアから避難しようとしているのです。臓器売買やレイプなど非人道的なことが蔓延っている場所から女性や子どもが逃げようとしているのに、なぜ私たちは人道的な橋をかけることができないのか。ナイジェリアの人がラップで歌っていたように、リビアの状況は過酷で人権に反しているわけです。前進も後進もできず、そこにとどまらないといけない人々に対し、私たちは何もできないのか。それは死と出会ったときにもすごく感じました。ヨーロッパ、ひいては世界がなぜ何もしていないのか、怒りを感じるところもありました。
笑いというのは、軽妙さということでもあるかと思うのですが、これは映画に必要なものだと考えています。サムエレは、ウディ・アレン(アメリカの映画監督・俳優)のようなキャラクターです。悲劇と喜劇、両方の要素を持った人物です。映画は笑いというものがなければ、強い映画にはならない、というのが私の信条です。ただ悲しいだけであったなら、それは何か間違っていると。ロッシーニの楽曲も大好きな楽曲です。エンディングの曲は、軽妙さが崩れ行く第二次世界大戦の歌ではありますが、軽妙さもある。ある意味、存在の軽さを感じながらも重い状況に相対していく。これが私たちがしなければいけないことではないか、と思うのです。
最後に、配給会社のビターズ・エンドに御礼申し上げたいと思います。みなさんが映画館に足を運んでくださると信じて劇場公開となったわけです。64ヶ国で公開されるこの映画を映画館で観ていただくことが重要だと思います。そのために、テレビや小さなスクリーンではなく、映画館で観客の皆様にお見せできることに対し、ビターズ・エンドに感謝しています。今日来てくださった方も、ぜひ友だちを誘って劇場で観ていただきたいです。こういう映画にも多くの人が観に来てくださるということを知ってもらいたいからです。ニューヨークでは3ヶ月、フランスでは4〜5ヶ月上映されましたし、イタリアでは25万人が足を運んでくれました。日本でもたくさんの人に観ていただいて、こういう映画もきちんと集客できるということを知ってもらうために、ぜひお誘い合わせの上、2月11日から劇場でご覧ください。
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