1980年代に入り、日本はインドシナ難民の受け入れを行いました。その数は1万人以上。”ボート・ピープル”と呼ばれた人たちも含まれ、その一人ひとりに人生のストーリーがあります。
東京・内幸町のオフィス街の地下にあるレストラン街。その一角にある「イエローバンブー」は、本場さながらの味が人気のベトナム料理店です。
「日本のベトナム料理は日本人向けにアレンジされていて、本場の味を楽しめるお店が少なかったんです。だから、自分でやってみようと」。そう話すオーナーの南雅和さんはベトナム出身。1980年代、ベトナム戦争後の混乱を逃れて日本にやって来ました。
当時まだ10代だった南さんでしたが 、“第2の故郷” として日本で生きていくことを決意。さまざまな人の助けを得ながら、懸命に日本語を学んで学生時代を送り就職しました。「会社員時代にベトナムに出張したりしているうちに、生まれ育った国の味を伝えたいと思うようになりました」。食材の仕入れから調理、経営や接客を何年もかけて学び、念願かなって2010年に自分の店をオープンしました。
そして2020年2月初旬、そんな南さんのお店に、長年待ちわびていたお客さんが来店しました。「宮城さん、いらっしゃい!」。南さんが満面の笑みで迎えたのは、沖縄から来た宮城元勝さん一家。実は、南さんと宮城さん、時間と国境を越えた特別な関係なのです。
2人の出会いは今から30年以上前、1983年8月8日。ベトナムを追われた南さんたちを乗せた木造船が、洋上をさまよっている時でした。定員をはるかに超える100人以上が小さな船にすし詰め状態、ベトナムを出て数日がたち食料も水も尽き始めていました。
誰もが最悪の事態を覚悟した時、一隻の船が見えました。船体には「SHONAN MARU」。後々、南さんの記憶に深く刻まれることとなる文字です。
その船は、沖縄水産高校の実習船「翔南丸」。船長を務めていたのが宮城さんでした。「夜明け前、遠くに明かりが見えると当直の士長から報告を受けました。どんどん接近して来て人影が見え、たいまつの火を振って助けを求めていると分かりました。『ボートピープルだ』。とっさにそう思いました」。甲板は人であふれかえり、お年寄りや赤ちゃんも見えたと言います。
宮城さんは「助けないという選択肢はなかった」と力強く語ります。「船乗りにとっては、船員法がすべてなんです。いかなる時も人命救助に力を尽くす、生徒にも日ごろからそう教えていました。教育上も、人道上も、彼らを助けることが船長としての責務でした」。
船員たちと協力して一人ひとり船に移し、甲板にテントを張って寝床を確保しました。しかしほどなくして台風が接近してきたため、船内の食堂や通路にスペースを作りました。病気の人はいないか、食べ物は行きわたっているか・・・。寝る間を惜しんで確認を続けました。
ベトナム側のリーダーと協力して乗船者名簿も作りました。「名前、生年月日、希望する国などを書いてもらいましたが、日本に行きたいという人は一人もいませんでした」。当時、日本ではボートピープルの受け入れが十分整備されておらず、欧米を希望する人が多かったようでした。60人以上の船員たちと助け合いながら4日間を過ごし、日本政府などとも連絡をとり、態勢が整ったマニラ港での下船が決まりました。
「あれ以来ずっと、あの時の人たちは無事だったのかと夫婦で話していました」
マニラ港での別れ際にお礼として渡された木造船の予備のプロペラを、宮城さんはずっと大切に保管していました。生まれも育ちも漁村。漁船の船長をしていた父親の影響で、普通高校を中退して水産高校を受験し直して船乗りに。年間240日は海での生活。いろいろなことがありましたが、ベトナムからの難民を救助したことは、人生の中でも強く記憶に残っていました。
そしてもちろん、南さんも自分たちを助けてくれた日本人のことが気がかりでした。ベトナムから同じ船に乗ってきた人は、その後、国も地域もバラバラに。情報がない中で唯一記憶に残っていたのが「SHONAN MARU」の文字でした。図書館で調べ続けましたが、なかなか手掛かりがありませんでした。
その縁を再び紡いだのが、東京出張でたまたまイエローバンブーを訪れた沖縄の教員でした。「お店で盛り上がって話をしていて、実は恩人を探していると打ち明けました。状況を説明したら、もしかしたら沖縄の人かもしれないと。帰ったら探してみると言ってくれたんです」。
そして、ほどなくして「見つかりましたよ!」と連絡があり、“鳥肌が立った”という南さん。「まずは船長さんがお元気だと分かってうれしかった。電話して会いに行きますと伝えて、昨年7月に沖縄で再会を果たしました。本当にうれしかった。宮城さんの救助するという判断がなければ、私たちはこの場にはいないですから」。沖縄には、高校生の娘の亜理沙さんを連れて行きました。南さんは今まで、自分のバックグラウンドを話したことがなかったのです。「今だったら伝えてもいいんじゃないか、そう思いました。なんで今まで言ってくれなかったのかと怒られましたね(笑)」。
「今度は東京の南さんのお店に行きますね」。そう沖縄で別れてから半年後、宮城さんの息子さん夫婦の後押しもあり、家族そろっての来店が実現しました。「沖縄で南さんにお会いした時、身内が増えたような気がしました」と宮城さんの奥さん。当時、実習船がベトナム難民を救助したというニュースが飛び込んできて心配したが、みんな無事だと聞き安心したのをはっきりと覚えていました。
「救助からしばらくして、長崎の大村にいる方から手紙をもらいました。そこで初めて、日本に来た人もいるんだと知って、いつか誰か訪ねてきてくれないかなと思っていました。南さんから連絡をもらった時は、そういうこともあるんだと心が震えました」と宮城さんは話します。
この日、イエローバンブーには当時一緒に逃れてきた人たちも集まり、宮城さん一家とテーブルを囲み、南さんのベトナム料理を味わいました。話は尽きることがありません。時間と国境を超えたかけがえのない時間でした。
宮城さんはこう話します。「私の地元に『神様からのお礼は長い年月たって来る』という言い伝えがあります。あれから36年、まさにその通りになったと思いました」。
南さんのお店の名前「イエローバンブー」は、ベトナムで縁起が良いとされている竹の名前。どんな風にも倒れない強い竹、それはまるで南さんの人生を象徴するかのようです。